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縄文時代の大陸との交流(稲作、環東シナ海海神族、クロム白雲母勾玉)

 

日本列島における稲作は、陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前(BC4000年前)や鹿児島県の遺跡で12,000年前(BC10000年前)の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが見つかっている。プラント・オパールは2060ミクロンと云ったもので、大量に稲の葉に含まれるので、微量の検出では、黄砂等に付着して、大陸から飛来した可能性等を否定できずに、決定的な資料とは言い得ない。また、炭素14年代法では、20年刻みの年代測定が可能となっているが、BC750年~400年までの“縄文―弥生ミステリーゾーン”が存在して、有用ではない場合がある。これらのことから、穀物栽培資料としては、穀物それ自体か土器の穀物圧痕を重視した方が良いそうだ。

 

 土器に付着したイネの圧痕では縄文時代後期中頃(BC2000年紀中頃)、稲それ自体では青森県風張遺跡と熊本市上の原遺跡で縄文時代後期末(BC2000年紀末)が最も遡るものであるそうだ。

 

水田遺跡がBC1000年頃から北九州で認められることから、弥生時代の始まり自体が500年程遡ること(BC1000年前後~)が示唆されている一方で、以下の稲の水田耕作の朝鮮半島経由伝来説は、説明できなくなっている。遼東半島で約3000年前(BC1000年前)の炭化米が見つかっているが、朝鮮半島では稲作のこの時期の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前(BC500年前)の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。朝鮮半島で最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘されている。

 

 

 分子人類学者の崎谷満は、ハプログループO1b2 (Y染色体)に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に水稲をもたらしたとした(江南説、対馬暖流ルート)。八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べているが、北九州の水田遺跡は「呉楚七国の乱」は、楚は周代初期~BC305年に存在したことから、500年程後のことであるようだ。

 

 

 2002年に農学者の佐藤洋一郎は、「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域に存在するRM1-aからh8種類のDNA多型で、1)中国にはRM1-ah8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと、2)朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと、3)日本にはRM1-aRM1-bRM1-c3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認し、RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は伝来では、朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し、更に、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」の解析を行い、温帯ジャポニカ(稲)が東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認したそうだ。

 

 

縄文時代後期初頭(BC2000年前後)に、中国渤海湾や韓国西・南海岸と共通する漁具が北部や西部九州地域に出現するそうだ。縄文時代後期の大陸と日本の間の交流を行ったのは、海神族と言われる人々であったと考えられる。

 

山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としているそうだが、海神族の環東シナ海分布の側面から見ると、また、海神族の本拠地が朝鮮半島ではなく、北九州側にあったそうであることから、朝鮮半島から北九州に入って来たと見られる支石墓も、また、支石墓の石材も天草産が多いと言われていることから、海神族と言われる人々の文化と見る方が妥当であるようだ。環東シナ海の海神族の分布は、中国山東半島以南から江南、渤海湾沿岸、朝鮮半島西・南岸、壱岐対馬、五島列島、長崎、天草、甑島、薩摩半島西岸と云ったものを考える必要がありそうだ。

 

 

一方、装身具である勾玉では、縄文時代後期には、クロム白雲母の勾玉が糸魚川のヒスイに先行して、九州(熊本、鹿児島、大分)や近畿、東海で製作・流通していたことが、大坪志子らが報告しており、海神族は縄文ネットワークを介して、縄文末期には九州から東海地方まで浸透していたようである。因みに、縄文遺跡の分布が、関東から東北に多いのは、この海神族の縄文社会への浸透で早期の弥生文化への発展による可能性もあると思われた。

 


司馬遷と漢の武帝

 

司馬遷の史記の成り立ちが、NHKの吉川晃司の案内の古代中国「よみがえる伝説:司馬遷と武帝、史記誕生秘話」で、解説されている。

 

匈奴に敗北し降伏した李陵将軍をかばって、援軍の到着しなかったことが敗北の原因と、周代の記録係の司馬家の末裔の太史令の司馬遷は漢7代皇帝武帝に説いたが、宮刑に処され、3年もの間幽閉され、その後、史記を残している。

 

 史記には、それ以前の記録文書の存在が知られて、司馬遷は各年代における歴史に有名な人々の逸話を挿入する烈士伝で構成し、この編集がその後の中国の歴代王朝の歴史書の雛形になった。

 

 史記は、歴史の中の勝者も敗者も烈士伝に加えて、史書は所謂勝者の歴史とは異なる。漢が、敵対し、万里の長城を敦煌の西側にも建設して、撃退した匈奴の歴史も記述し、後に、元代にその祖先の歴史を記録したと司馬遷の再評価が行われたのだそうだ。因み、考古学的検索も進み、匈奴の文化や漢とは異なる製鉄炉と言ったものが明らかにされてきているそうだ。歴史書と考古学の融合で、史実が明らかになるようだ。この史書の匈奴伝の存在故に、その後の歴史書等の東夷伝の記述があるとも思える。

 

 しかし、史記の漢の武帝に関する記述は例外的に烈士伝様の記述がなく、この部分は後の改ざんが示唆され、別の項目に改ざん出来なかった武帝の批判されるべきことを見出せるそうだ。史記は、勝者の歴史書ではないが、また、勝者によって改ざんされた歴史書でもあるようだ。

 


九州での紀元前5000年頃からの縄文から弥生時代の日本への大陸の影響

 

九州、とりわけ、南九州では、30万年〜9万年前の阿蘇山の噴火により巨大なカルデラが形成され、そのカルデラ内には、旧石器時代からの遺跡が認められている。3万年前に姶良カルデラが形成、7300年前の鬼界カルデラ(海底火山の大爆発)の火砕流は、海上を走り南九州を襲い、南九州の縄文文化を壊滅させ、アカホヤと云う地層を残している。従って、南九州から考えると、破壊された縄文文化は、アカホヤの表土の上に再生してきた自然を開拓して、再度の発展をすることになった。この7300年前(紀元前5000年頃)となると、中国大陸では、長江文明、黄河文明、遼河文明が既に興り、その間で、文化の交流と共に、古代中国の国家形成が始まっており、九州での紀元前5000年頃からの縄文文化は、中国大陸の文化や戦火、流民の影響を受けていると思われる。

 

A、古代中国の文化と人々(主に、古代中国と倭族、鳥越憲三郎著、中公新書の要約)

 

 

 

1) 黄河中流域が最も古い原人らの旧石器時代遺跡が発掘されている。

 

旧石器時代の6080万年前の北京原人より古い藍田(ランデン)原人、20万年前の大荔(タイレイ)原人、新人(黄龍人、長武人、洛南人)が黄河中流域で発見されている。

 

 

 

2)新石器時代の古代中国(遼河文化―黄河下流域文化と黄河文明)

 

2a) 遼河文化

 

新石器時代に入ると、中国東北地方(遼河文化)に、新石器時代早期8000年前の興隆窪(コウリュウカ)文化が見られ、メゾボタミア(西方)から伝播したとも考えられる彩陶や女神像の他に、中国的な玉器や龍像が見られる。5500年前には、中央アジアからモンゴル、中国東北地方に広がる紅山文化が出現している。しかし、この紅山文化では、頭を東に向けた仰臥伸展葬が見られ、人々はより東方の由来するようだ。

 

2b) 華北高原南部

 

黄河中流域の東端に当たる華北高原南部で、新石器時代早期の磁山・裴李崗文化の8000年前の裴李崗(ハイリコウ)遺跡や7500年前の磁山(ジサン)遺跡が見られ、ゾウやトラも居るかなり温暖な気候の植生・動物相が続いていたようだ。畑作の粟栽培 (麦作は漢代以降)を行い、頭を西に向けた仰韶伸展葬を行い、遼河文化の紅山文化の担い手とは異なる宗教観があったようだ。

 

2c) 黄河下流域

 

淄河(シガ)流域(東夷文化)では、8500年前の後李(コウリ)文化が出現した。畑作の粟栽培、彩陶はなく、未熟な土器を使用し、遼河文化の紅山文化の担い手と同様に頭を東にした仰臥伸展葬をしていた。7500年前の北辛(ホクシン)文化に継ぎ、大汶口(ダイモンコウ)文化(前期:63005500年前、中期:55004800年前、後期:48004400年前)が見られ、当時の温暖な気候を反映して、象牙製品が見られ、玉器も見られた。44001500年前の龍山(リュウザン)文化(山東省)では、回転台(ろくろ)の発明で黒陶の隆盛が見られ、銅製品の出現し、頭を東に向けた仰臥伸展葬をしていた。集落を含む城塞が出現し、城子崖遺跡(龍山文化前期〜全期)は、中国の古代王朝時代の(紀元前1600年から紀元前1100年頃)の中心都市であった。龍山文化晩期の丁公遺跡では研磨された泥質灰陶片に古代文字が見出されている。ペルシャ戦車が中央アジア、モンゴル、中国東北地方に分布した遼河文化の紅山文化を介して殷の軍隊に導入された結果、殷は中国古代王朝の一つと史記で記述されるまでに強力になった側面もあるそうだ。また、田旺遺跡には、紀元前857に西周時代斉国の王城が築かれて、以後638年間栄えた。

 

2d) 黄土高原

 

気象の変化と砂漠化で、空白期間(3000) 経て、新石器時代中期(60006500年前)に仰韶(ギョウショウ)文化が出現した。仰韶(ギョウショウ)文化の担い手は、頭を西に向けた仰韶伸展葬をしていた。

 

2e) 黄河中流域域

 

龍山文化前期〜後期に城塞都市国家があったはずであるが、漢時代の史記には記述がない。龍山文化後期(48004400年前)の孟荘遺跡・城跡が発掘されているが、黄河下流域(山東省)の城子崖遺跡よりかなり小型だが、黄河中流域では最大であり、孟荘遺跡・城跡は、龍山文化後期から二里頭文化早期の殷、その後の東周の遺物が発掘されている。(紀元前2070〜紀元前1600)の王城ではないかと疑われたが、夏と殷(紀元前1600〜紀元前1100)の前後関係や並存に関して、c14測定資料が少なく、結論が2000年頃に出ていない。

 

夏の二頭里遺跡には、殷の副都(西毫)が置かれていて、礼器や青銅器に殷の色彩が強く、夏は殷と一時期並存した後に吸収された可能性もあるようだ。漢代の司馬遷の史記では、中原文化一元論(勝者の歴史)により、東夷の出目であろう殷を古代中国王朝に入れて、夏王朝を実在が証明される最初の中国王朝としているが、龍山文化前期〜後期の記録のない城塞都市国家は殷と関連した城塞都市国家であった可能性があるようだ。

 

 

 

3)新石器時代の古代中国(長江文明)

 

長江文明の担い手は、漢族からの南蛮や西南夷と蔑称されていたが、長江の南で7000年前の稲作文化の河姆渡(カボト)遺跡(新石器時代前期末〜中期初頭)が発見され、長江の北の山東半島南に、6000年前の稲作を行った徐国(徐夷)やわい国(ワイ夷)が存在した。

 

a) 長江下流域

 

河姆渡遺跡は、河姆渡文化(第4:7000年〜、第3層:6500年〜)と馬家浜(バカヒン)文化(第2: 6000年〜、第1: 5500年〜5000年前)から成る。

 

 河姆渡文化の第4(7000年〜6500年前)では、多くの稲籾(イネモミ)が発見され、水田遺跡が見つかっていないが、水稲農耕の存在が示唆されている。佐藤洋一郎 (DNAが語る稲作文明)が示唆したジャポニカ米であるが、朝鮮半島経由で日本に伝来とされているが、年代が異なり、河姆渡文化からのジャポニカ米の日本伝来は朝鮮半島を経由していないようである。高床式の100メートルに達する長屋もあり、かまどは高床に切って作る。陶製紡錘子と機織の部品が発掘され、漆器と玉器も見られる。狩猟(クマ、トラ、ゾウ)も、家畜(ブタ、イヌ、スイギュウ)もいたようだ。漁労(海水魚、淡水魚)でも、海での漁労では、東方の海からの太陽(日の出)や東方浄土の宗教観が生じたのもかも知れない。頭を東に向けた横臥屈葬し、鳥、太陽、稲の象徴的飾りを家屋に飾る倭族の風習が見られる。河姆渡文化の担い手は、倭族でも、東シナ海をめぐる中国沿岸、朝鮮半島、日本、琉球弧の島々や台湾と7000年〜6500年前からの関係が濃厚に疑われる海水魚の漁労を営む海洋民族でもあったようだ。高床式の100メートルに達する長屋も作っているので、丸木舟を基礎にした構造大型船も作り得たのかも知れない。

 

馬家浜(バカヒン)文化では、水田遺跡が発見され、頭を北にした俯身葬が見られた。

 

長江下流の河姆渡(カボト)文化、馬家浜(バカヒン)文化に次いで、崧沢(スウタク)文化が見られるが、絹織物が見られ、女系の社会で、早期には頭を北向きの仰臥伸展葬、その後は頭を東あるいは南に向けた仰臥伸展葬が見られる。

 

良渚(リョウショ)文化(53004000年前)となると、東北地方の紅山文化と同時期で、蘭熟した玉器の文化であるが、紅山文化(北方狩猟民族)の龍玉は天空の神を龍として表現した神権的権威の象徴であるが、良渚文化の玉器は祭祀・儀礼用の玉器(玉琮(ギョクソウ)他)であった。王墓と思われる巨大な墳墓である大観山果樹園遺跡では、古代文字と考えられる刻画符号のある黒陶、符号を描いた玉器が見られる。王宮と考えられる莫角山遺跡等の祭壇遺跡や墳墓遺跡では、祭儀では殉死や生贄の痕跡が見られる。この生贄の存在は、東夷に出目も持つ古代王朝の殷でも認められているが、倭族の一部に見られる。良渚文化期の王国は、紀元2700年前(4700年前)に建国されて、夏よりも500年早いが、その名前は史記には記録がない。

 

世界的な規模の気候変動(BC2200)でエジプト古王国等の崩壊が記録され、良渚文化は洪水により崩壊したと理解されているが、洪水による崩壊の層の下に、良渚文化層の上にもう一つの文化層 (稲作の衰退、狩猟、漁労生活が見える文化)が認められるそうだ。良渚文化の末から、越や呉が出現するまでに、1000年以上の空白があり、それなりの人々の集団が存在したものと考えられる。

 

は、良渚文化の地の南側の文化圏外に、成立の時期は不明だが、周代初期(紀元前1100年頃には存在し、〜紀元前305年頃まで存続している。史記では、越の起源を中原の夏に王朝系譜に求めているが、河姆渡文化の担い手の末裔の海洋民族であろう。越と倭は、中国語での発音では“ヲ“で、越も倭族であろう。周王朝末の戦国時代に、楚に滅ぼされて、福建(閩越)、広東、越南(ベトナム)に逃れているが、日本へは、越後、越前といった地名もあり、それ以前(縄文時代末)には稲作を伝えているようだ。

 

(姫氏)は、紀元前1200年頃に呉太伯が、周の王位をめぐって殺害されるの避けて、楚と越の境界領域(太湖北岸)に逃亡し、多くの倭族と同化して、その系統がその後に呉王になっているが、越に紀元前473年に滅ぼされている。この系統の人々が日本に逃亡してきたと云われており、鹿児島神宮には、日本で唯一呉太伯を祀っているそうだ。

 

b) 長江中流域

 

長江中流域の彭頭山(ホウトウサン)遺跡では、9000年前の土器片に稲籾(イネモミ)が認められ、長江中流域が稲作の始原地の一つと考えられている。

 

長江中流域の新石器文化は、彭頭山(ホウトウサン)文化(8500年〜)、城背渓(ジョウハイケイ)文化(7800年〜)、大渓(タイケイ)文化:6900年〜)、屈家嶺(クッカリョウ)文化(5100年〜)、石家河(セッカガ)文化(4500年〜4400年前)と発展した。

 

彭頭山(ホウトウサン)文化期(8500年〜)では、八十トウ遺跡で最古の村落形態が見られ、稲籾も発見されている。

 

大渓(タイケイ)文化期(6900年〜)には、ホウ(氵に豊)陽平原に王国が成立していたようで、以下に説明する城頭山古城遺跡の城郭都市よりも大型の未発掘の城郭都市が存在するそうだ。城頭山古城遺跡:では、6500年前(最古)の水田遺跡が見つかり、6500年前の大渓文化後期の遺構の上に築城され、5000年前の屈家嶺文化早期の築城(自然村落から城郭都市への発展)されていた。黄河流域の龍山文化より古い。大渓文化期の富の蓄積の上に、城主の出現と墓域の副葬品から階層分化が進んでいた。

 

石家河(セッカガ)文化期(4500年〜4400年前)を最後に、この長江中流域の王国は衰退した。これらの長江中流域の王国は、倭族のトン族の王国であったようだ。メオ(くさかんむりに田)族・ヤオ族(黄河中流域の土着民)は、紀元前2500年〜2400年に、長江の支流の丹江(タンコウ、夏の長江支流領域)北岸から長江中流域域に南下し、(メオ族は、洞庭湖西側の武陵へ南下し、ヤオ族は長沙方面に南下した。メオ族の南下した武陵はホウ陽平原の一部であり、この長江中流域の倭族のトン族の古王国はメオ族により討滅されたようだ。その後、倭族のトン族であり、洞庭湖へ流入する河川の上流域にトン族自治区が残り、この伝承がある。メオ族とヤオ族は、その後、明代にはメオ族乱を繰り返し、ヤオ族は清代にメオ族乱を起こして、南や西南の山岳地帯に逃げ込んだ。

 

 メオ族の一部は黄河中流域 (長江支流の丹江北岸の南陽近辺で夏の領域)に残留し、後の(熊氏)を西周の時代に建国した。楚は、武昌周辺の銅山、金山、鉄鉱山を手中にして、強力になったが、秦の始皇帝により、紀元前223年に滅亡している。

 

3c) 長江上流域

 

三星堆文化(4800年前〜2850年前)は、黄河流域の龍山文化期に相当する第一期:4800年前〜4070年前)と第二〜四期(夏、殷、周代初期)に分かれる。

 

三星堆王国(古代蜀国)は、男性神を祀るチベット族の王国で、貝貨も見られ、青銅器(失蠟法)が見られる。この青銅器の失蠟法は、殷の鋳造法とは異なり、南方から伝来と殷に北方から伝来した鋳造法以外に、北方ルートでの失蠟法の伝来も滇国の最古の青銅器の年代が前期古代蜀国の滅亡後であることから示唆されている。

 

紀元前700年頃、倭族の巴国の勢力が優勢となり、前期古代蜀国は滅び、倭人に属する巴国勢力が後期古代蜀国を建てるも、紀元前316年に、戦国時代の周の将軍により討伐され、後期古代蜀国も滅亡した。

 

昆明市の南の滇(テン)池周辺に、倭族の滇(テン)国が、紀元前700年頃に、前期古代蜀国が滅んだ後に建国されている。

 

漢代の蜀の王墓から出土した青銅器には、女性等を生贄にした稲作の倭族の豊穣と神格化の絵を認める。

 

 

 

B、古代朝鮮の文化と人々(古代朝鮮と倭族、鳥越憲三郎著、中公新書、他)

 

6000年前の朝鮮半島は、中国東北地方の遼河文化圏(新石器時代)であった。この時期の紀元前4000頃には、ソウル漢江左岸の遺跡で、炭化ヒエが認められる。採集・狩猟・漁労を行う稲作を行っていない倭人(恐らく、黄河下流域から海岸伝いに植入)の遺跡と考えられる。

 

 

 

A、 古代朝鮮(朝鮮半島の北半分)

 

 箕子朝鮮(紀元前1126年〜1082)は、殷代に、殷の政治家の箕子が箕子朝鮮(を建国し、平壌に首都し、箕子陵が存在した(現在、北朝鮮により破壊され、公園)。粟、稗、コウリャンの栽培が行われていた。

 

 殷の崩壊後、燕の一部となる。燕の支配下の紀元前700年頃、海岸地帯で、稲田が始まってきた。その後の燕(周代〜春秋戦国時代)が秦により滅亡した後も、箕子系の王が朝鮮王として存続した。

 

衛氏朝鮮(紀元前195年〜紀元前108年)は、秦の滅亡後、衛氏ないし張氏が、漢の藩国として建国し(漢の遼東の太守が漢皇帝の承認を得て、衛氏朝鮮を認めた)、その官僚の多くは中国からの亡命者であったようだ。

 

紀元前108年には、衛氏朝鮮は滅び、漢の一部となる。漢の楽浪郡、臨屯(リントン)、玄兎(ゲント)、真番(シンバン)の郡が置かれ、漢の植民地となった。紀元前82年には、朝鮮半島には、この4郡は楽浪郡にまとめられた。

 

玄兎郡は、日本海に通じる回廊の確保の為に設けられた。高句麗(紀元前37年~668年)の都城(集安)は玄兎郡の県城の上に築かれ、高句麗は玄兎郡に成立し、その後、遼東郡にいた扶余族が鴨緑江以南の朝鮮半島部に拡大し、ワイ族が隆盛して、高句麗が拡大した。高句麗王(高氏)は北扶余系と言われている。

 

 

 

B、 辰国(朝鮮半島の南半分)

 

朝鮮半島南部に古くから、恐らく、箕子朝鮮建国より古くから存在する倭族の国が存在していた。秦の支配地域からの流民(中国人)が集団で移住・定住したとも言われ、後の辰韓に定住したと伝えられている。紀元前2世紀頃に、馬韓、辰韓、弁韓に分かれる。その後、馬韓は百済に、辰韓は新羅になるも、記録が残っていないのが真実であり、これも、前史を末梢してきた結果であるようだ。

 

 

 

弥生時代には、東シナ海の周辺の日本側の遺跡から、筋骨隆々とした海洋民族の遺骨が見出され、東シナ海の古代の航路等と周辺諸国の関係の検索も期待されている。また、最近の遺伝子の民族学が次世代シーケンサーを活用して、飛躍的に進展してきているので、その成果を考古学的資料から、失われた歴史の一部が解明されて来ているようだ。

 


地球事変ギガミステリー、サル、ヒト、HTLV-1

昨今の地球事変ギガミステリー、人類誕生に、コスミックフロント NEXT等は、今まで、講義中に”背景の理解”に役立つと視聴を勧めて来たが、研究に於いても、貴重なアイデア源である。

 なかでも、人類の歴史、サルの歴史は、HTLV-1のウイルス学的疫学研究の基礎となるものであるようだ。 

  昨今の縄文ブームに乗って、縄文から弥生への変遷、そして、近畿の大和政権の確立までの歴史が解明されてくるのかなと予想していた。

その一方で、人類誕生といった10万年前からのホモ・サピエンスの出現、74千年前のインドネシアのトド火山の超大規模噴火による絶滅の危機、その後の55千年前のネアンデルタール人との混血、更に、言語の獲得に伴った高度な文化を獲得するに要する運動性言語野の発達、4万年前後からの日本列島への移動と渡来で、丸田舟からカヌーの獲得、縫い針の発明による北方への進出と、縄文時代とその文化の発達の前の状況も万年単位でおぼろげながら明らかにされつつあるようだ。

 更に、25千万年前の哺乳類の祖先の大型生物が出現したペルム紀の超大陸パンゲアで、大陸プレート(巨大メガリス)のマントルへの落ち込みによる地磁気の乱れが宇宙線による雲の大量発生に続く寒冷化、巨大メガリスのマントルへの落下がマントルからスーパープルームがパンゲアに100万年も続いた巨大火山活動が温暖化と乾燥化を生じて古生代をおわらせた。これが最大の生物絶滅の原因である。

  次に5千万前の三畳紀には、パンゲアの分裂はその巨大な火山活動で大西洋ができ、アメリカ大陸とアフリカが分離して温暖化と乾燥化が生じて、恐竜の時代が開けた。65百万年前  ユカタン半島への巨大隕石の落下に伴って、恐竜を始め、多くの地球上の生き物が絶滅した時期を生き延びたネズミ型の哺乳類は、55百万年前以前にアジア(中国)でサルに進化し、大陸の移動に伴った大西洋の巨大火山活動からの大量のマグマも流出による海底からメタンガスを大量に大気中に放出し全球レベルの温暖化で、アジア地域で発生したサルは、北極圏まで北進した森に沿ってアフリカ以外の大陸に大移動し広がった。

  その後、砂漠化を免れていたアジアの一部では、人類に進化して行く類似猿が出現したが、肝心の人類出現の地であるアフリカにはサルは到達していなかった。そのような時期に、アジアではヒマラヤを形成し、孤立した南極大陸の寒冷化は、アジアでの巨大嵐を頻発させて、熱帯の大河には、森の延長線上に巨大な浮島が誕生し、嵐の大雨に伴って氾濫した大河は、人類へ進化する類人猿と森共々に大きな浮島を太古のインド洋に流し、その浮島が漂流してアフリカ大陸に漂着し、人類へ進化する類人猿は人類誕生の地であるアフリカに到達したそうだ。これはまだ仮説だそうだが、37百万年前にミヤンマーと同じ類人猿がアフリカに出現した。そして、何らかの地球事変が、アジアのその類人猿を滅亡させ、アフリカで人類が誕生することになった。

 日本列島も、サルの太古の世界大移動の時期(始新世(56百万年前~34百万年)に、アジア大陸の東端近くの大地溝帯と火山活動によりその原型が出来て、23百万年前~530万年前に日本海が形成されてアジア大陸から分離されている。従って、サルは日本列島形成前に既に日本列島に分布していたことになる。

 

 なぜこの話題に興味を持っているのかと云うと、鹿児島大学の久保田龍二教授の海外学術研究の分担者になっており、東アジアにおけるHTLV-1感染の広がりに興味を持っていたおり、学会で新しいHTLVがアフリカで見つかったそうだが、サルからの感染が考えられるそうで、サルにおけるHTLV感染に興味を持ったのである。

 

 ネットで調べていると、伊佐正の「ニッポンザルの感染症について」との文章が検索されて来た。その中に、(5)サルT細胞白血病リンパ腫のページに、日沼先生らの精力的検索の記載があり、日本サルの或る群では100%の抗体陽性率も見られたが、HTLV系統樹から、ヒトのHTLV-1との直接的な関係が見いだされないと云う。確かに、一般に南西日本の海岸つたいでの発症の特徴が見られ、ニッポンザルの住んだ山間や特定の群生地とはHTLV-1流行とは関係がないようである。

 

 アフリカでの人類誕生と、長期の森の木の上での生活はサルとの勢力争いもあっただろうし、そこで、サルのHTLVがヒトに感染して、営々と垂直感染と水平感染である一定の感染者が保持されて来たのであろう。やはり、ヒトの動きとHTLV-1亜型との関係が想定されるが、どのようなヒトの動きであったろうかが問題となるようだ。