最近の出来事


小島勝先生 逝く

平成301021日に、獨協大学の小島勝先生が逝かれた。

今年1月の箱根芦ノ湖湖畔のプリンスホテルでの日韓リンパ網内系ワークショップが最後のお会いできた学会となった。丁度、奥様も一緒に来られていた。デイナーパーティーでは、同じテーブルで食事をしながら色んなことを話した。この時は、珍しく酷い鼻風邪となり、発表はマスクをして行うと云う非常事態で、結局、デイナーパーティーも早々に部屋に引き上げることになった。翌朝には、小島勝先生と同じ頃のチェックアウトと聞いていたが、早々に帰宅されたそうで、翌朝は会えなかった。

 

今年の5月の札幌の病理学会では、小島勝先生に指導を受けていると云う留学生にポスター会場で声をかけられた。その後、来年は病理学会で会えるかなと思っていたところ、小島勝先生の訃報に接した。取り急ぎ弔電だけはだすことにした。

 

その後、リンパ腫アトラス第5版が出たと云うので、アマゾンで注文した。届いた本には、小島勝著の項目が複数掲載されていた。まさに遺稿と思われた。その中に、伝染性単核症の項目では、これでは腫瘍と判断されても不思議ではないなと思われる組織像が掲載されていた。また、非定型過形成の項目では、MALT型とされるリンパ腫が従来は含まれていたと云う。やはり、PCNAKi-67の増殖細胞の免疫組織化学で達成出来なかった腫瘍細胞検出の免疫組織化学の確立は急務であるようだ。これを、小島勝先生の遺訓と理解したい。

 

 


平成30年第59回日本組織細胞化学会報告(2018.9.29-30、宮崎)

 

2018年の日本組織細胞化学会は、台風24号の強烈な風と雨で2日目は中止となった。発表が2日目の一般口演となっていたので、抄録集への抄録発表として、私自身の発表は終リ、思い出深い学会になった。

 

幾つかシンポジウ等の講演に興味深いものがあった。

 

学会初日のシンポジウムでは、札幌医科大学の廣橋先生の最近話題となることの多いPD-1PD-L1のオプシーボ免疫療法の位置付けの解説に関しての講演は、はかなり長くて予定のスライド全ては説明しきれていなかったが、非常に理解出来て有意義なものであった。私なりの理解であるが、癌抗原としては発現亢進するものに含まれるサイバイビンは、その詳しい検索方法の解説はなく、最後にどのような免疫染色の評価方法が問題との指摘はあったが、多くの癌で90%以上の症例で陽性となるそうで、そのサバイビンのペプチドワクチン療法で、治療効果があった例の腫瘍組織には多く細胞傷害性T細胞(CTL)の浸潤が見られる一方で、治療効果の無かった例では、CTLの浸潤が無いものの他に、CTLの浸潤があるものもあり、そう云って例では、CTL反応の腫瘍側の調節因子であるPD-1PD-L1のシステムをオプシーボで阻害する事で誘導されたものか生来のCTL抗腫瘍反応であれ、その本来の抗腫瘍効果を発揮されると云うことであるようだ。サバイビンは、ミトコンドリアルートや細胞毒等からのアポトーシスシグナルの 伝達Caspar 9やデス受容体からのシグナルの伝達cascade 8に加えて、効果cleaved cascade 3も抑制することから、サバイビンのペプチドワクチン後に加えて、CTLの活性化をオプシーボで誘導することは理にかなっているようだ。(その後、そして、今年(2018)のノーベル医学生理学賞に、PD-1の発見から新たな癌治療法(オプシーボ)の開発で、本庶佑教授が選考された。)

 

また、特別功労賞と功労会員に推薦された山梨大学の加藤教授の記念講演で、日本人のヨード摂取量は世界的に見ると、かけ離れて高いのだそうだ。この点を考えると、原発事故での放射性ヨードの内部被曝による甲状腺癌発生の予防の為のヨード剤の服用は、日本人には必要か必要でないのかの検討が必要であるようだ。

 

ポール中根教授の日本での招待特別講演も、これが最後ではないかと、自慢話をすることにされたそうだ。ピアス教授と共に 、酵素抗体法の開発者として著名な方で、酵素抗体法の医学生物学領の研究や臨床での広範囲の活用に加えて、抗原回復でその応用範囲は更に広がっていることから、医学生物学賞も夢ではないように思えるのだが、まだ、その話はない。

 

宮崎観光ホテルでの懇親会では、宮崎の鬼面の船引神楽は迫力があった。農耕を祈願するものだそうで、江戸時代には行われていたものだそうだ。神話の国、宮崎であり、その歴史には興味がそそられる。

 

鹿児島大2解剖の先輩の菅沼前宮崎大学長と話していると、村田教授の叙勲はまだかなと聞かれる。佐藤榮一名誉教授は、大学定年後に鹿児島県公安委員会に関係していたことから、公安委員会からの推薦で3年前に叙勲された。鹿児島大学の場合は、最近は大学推薦の数が減っているが、誰を推薦するかでひいき等の問題を考え過ぎているようだと以前に高松理事から聞いていたので、そう返事した。

 

進崇城大学教授と話していると、ポール中根教授が来られたので、私たちも多重染色で国内特許を取りましたと言って、記念写真を撮った。

 

澤口宮大解剖学教授は、副会長として裏方に徹して忙しく動いていた。宮崎大学の作った37度の焼酎をロックで味わいながら良い気分になった。明日の学会2日目は、台風24号の影響で、その開催は難しいものがあるが、明日の昼前にならないと分からないと云う事で、中締め後は、ホテルの部屋でのんびりした。テレビでは、台風状況を流し続けていた。

 

翌日の昼前には、やはり台風の影響で、大淀川の水位の上昇に伴って、一部洪水危険情報も出るだろうな思っていたところ、学会2日目は中止が決定された。ホテルのチェックアウトをお昼まで延長して貰っていたので、早々に、チェックアウトして、車でホテルを出た。高速道路に向かうと、横風による通行止めで、都城経由で下道を行くと、倒木で通行止め、又、別の道を行くとこれも倒木で行けずに、元の道に戻って、コンビニで聞くと、今朝はこの道で都城から来たが、倒木はあったが、道半分は通行できたと云うので、その道を行くと、倒木の処理が行われ、山からの大量の水が出ているとこではその調査中といった感じで、どうにか都城経由で鹿児島に4時間ほどで帰って来れた。帰宅して、テレビで交通状況を見ていると、幸運にも、宮崎から都城への唯一も通行できたルートを帰って来れたようだった。この宮崎での日本組織細胞化学会は思い出に残る学会となった。

 


平成30年度第5回日本HTLV-1学会学術集会報告(2018.8.31-9.2, 東京)

 

今年のHTLV-1学会は、医科歯科大の神奈木教授を会長として、一橋講堂で開催された。

 

 今回の集会で私が興味を持てたのは以下のものであった。

 

1)移植治療を行い得たATL患者で経過中に再発が生じた時に放射線療法等で再発病変を加療すると、移植された骨髄由来(ドナー)の細胞傷害性T細胞反応を誘導して、その長期生存が50%の症例で期待される現状であった。岩手医科大学の石田高司教授の協賛セミナーでも、東大の内丸薫教授のランチョンセミナーでも、これが強調されると共に、骨髄移植を受けられない患者さんの治療が今後の問題であることが報告されていた。

 

2)東大の内丸薫教授らのHAS-FLOW 2GCD7CADM1でのATLの早期診断に関する口演等を拝聴した。CD7CADM1のそれぞれで10%25%50%で、フローサイトメトリーの散布図を区切り、低い領域からG14に区分して、G3の区域の細胞が多い例の中で、異型細胞が認められる例を早期ATL例とし、その他の例をATL 発症危険群とすると言う。ただ、フロアーからは、異常細胞が見られた例との表現で、臨床との情報交換が行われているのかといった質問・コメントがあり、同感である。更に、核染した細胞のフローサイトメトリーでの異型細胞の検出方法のポスター発表もあり、少し解説を聞いてみると、やや大型や中型の異型細胞の検出は妥当と考えられたが、小型異型細胞の検出は難しいようだ。異型細胞(リンパ球)が血液細胞学的に認める例を早期ATLとする学術的レベルは低いと思われ、臨床血液細胞学でのベッドサイドでの異型細胞ないし早期ATL細胞を同定する方法の研究が必要であると思われた。

 

3)今年の渡邉俊樹教授の世界的なHTLV の研究の動向に関しては、昨年のEZH1/2に関して話の続きとして、EZH21/2の発現異常に引き続く細胞分化にて正常細胞と腫瘍細胞へ分化を決定づけるゲノムと分子異常が発見されたのかと期待されたのだが、今年は、HTLV-1ウイルスの分子変異での日本型HTLV-1と世界のコスモポリタン変異型の分布の現状把握であった。HTLV の分子変異での系統樹解析でのコスモポリタン変異の世界的な分布では、京大の速水らの検索でのインドでの変異の頻発に対してイランの北部にHTLV-1感染流行地域が見出されるとフランスのグループは報告しているようだ。共に、コスモポリタンのA型に属するものだ。アフリカでは、更に異なるコスモポリタン変異が見られるそうだ。すると、日本型もコスモポリタン変異群に属してB型とされているが、日本で特異的に生じたのか、大陸でイランやインドを経由せずに北方ルートの人類の移動に伴い、且つ、南方ルートで山東半島を越えて渤海周辺から朝鮮半島に達した海洋系人類とのクロスする地域でもHTLV-1の変異型が問題となるようだ。しかし、この地域は、古代中国で頻発した洪水や時の政権による弾圧で、古代から現在に続く人々は稀であるようだ。従って、中国の歴史から考えると、福建から広東、広州の山岳地域に、時の政権の弾圧から逃れた客家の中でのHTLV-1亜型の検討が必要であるようで、研究分担者として参加している出雲・久保田の研究プロジェクトは期待できると思われた。

 

4)必須アミノ酸のバリンの欠乏食パルス療法が紹介された。これは、当然のことながら、キャリアーのレベルから導入可能なものと思われる一方で、どのようにして、日常の食事でバリン欠乏を作るかの栄養学の研究も必要かなと思われた。

 

 私は、サバイビンの腫瘍マーカーとしての再発見として、その抗原回復免疫組織化学的検索の結果をポスターで発表したが、そのフラッシュトークにて、“サバイビンの腫瘍マーカーとしての再発見として”この研究を行っていると説明すると、この点の理解はあるとのフロアーでの発言があった。この研究は、ベッドサイドで、末梢血組織標本を作製して、それでサイバイビンの抗原回復免疫染色の結果を含むので、上記のフローサイトメトリーの研究に対して、ベッドサイドでの血液中の異常細胞の検出の点では、a) 作製方法が簡単であり、b)末梢血中の所謂白血球を検索可能であり、c) 病理検査室での抗原回復免疫染色で検索出来て、d) フローサイトメトリーでの一定の大きさの細胞しかフィルターを介して個々の細胞を細い水流の中で重ならない様に流す必要もなく、細胞大きさの異なる白血球を検索出来て、e) サイバイビン以外の多種類の抗体を用いた検索が可能であり、優れているので、大きな種々の可能性が期待されるのだが、まだ、その認知が行われていないのが問題である。ポスターでは、一人、若手のPHDの学生さんが見に来たので、ATLの診断に関するよりも、サイバイビンのこの抗原回復免疫染色はATL幹細胞を標識出来ることからゲノム解析でサイバイビンの発現を指標にDNA抽出を行えば、一次的なゲノム変異を検索できる可能性が高いことを説明した。

 

 今回のこの学会参加で、期待していた研究の方向性に関して疑問に持っていたものは解決出来て、来年度の研究費申請での記述をより具体的に説明できるかなと思って、会場を後にした。

 

少し時間が出来たので、入場できるか解らなかったが、上野での縄文展の最終日だそうで寄り道すると、上野公園内の売店で入場券を発売していたので、購入して、国立博物館の入り口に行くと、切符を持っている人は直ぐに門を通過出来て、20分程待つことで入場出来た。縄文土器の想像以上に明瞭な線描やデザイン性に感服して、空港に向かった。

 

 

 

 

 


Cellsに高いImpact Factor が付いた

 

最近は、学術雑誌のImpact Factorに注目することはなかったが、札幌での病理学会から帰ってきてホットしていると、青笹克之名誉教授から、以前に投稿したオープンアクセス雑誌のCellsに4.829と云う高いImpact Factorが付いたとのメールがあった。

 

今までに、多重染色の論文を発表したJHCのIFは3.69だから、組織化学分野の雑誌よりも、やはり細胞生物学の雑誌の方がImpact Factorは高くなるようだ。また、日本組織細胞化学会の雑誌ではActa Histochemistry et CytochemistryのRG Journal Impactは1.40だそうだ。一方、病理学関係の雑誌では、AJSP (Amrican Journal of Surgical Pathology)は、Impact Factorは5.878で、RG Journal Impact は 2.74で、日本病理学会のPathology InternationalのIFは、1.742だそうだ。

 

Impact Factor は、掲載された雑誌の評価であり、その論文の評価は引用数が問題となるので、自分の論文もPRが必要かな?、

 

 

 


平成30年度第107回日本病理学会報告(2018.6.21~23, 札幌)

 

今年の病理学会への往路は、札幌にて、羽田経由で深夜の到着であった。鹿児島空港で飛行機の出発を待っていると、携帯電話が鳴った。先に、瀋陽から大阪経由で到着していた賈心善教授であった。「まだ、鹿児島」と言うと、翌日に学会会場で会おうということになった。札幌のホテル着くと、やや疲れ気味であったが、風呂上がりにテレビを見ると、FIFAのサッカーをやっていた。ついそのサッカーの決着がつくまでと見ていて、夜更かしすることになった。

 

  翌日の学会初日は、9時過ぎに受付を済まし、午後の発表の会場を確認し、日中交流シンポジウムの行われている会場で発表を拝聴していると、賈教授から電話があり、会場にて再会できた。色々と話をして、岡山大の吉野教授の宿題講演を拝聴し、会場のレストランで昼食を摂りながら、賈心善教授の近況を聞いた。

 

 賈心善教授は、研究は継続しているも定年を迎え、研究の場も瀋陽に確保出来ているようであり、中国医科大学病理学教室も王恩華教授は定年し彼の学生であった丘教授が主任となっている。丘教授も以前に面識があり、共同研究再開時にもスムーズな関係構築が可能な状況が確認できた。

 

その後、私の英語セッションの発表に賈心善教授にも付き合って頂いた。長崎の先生は、ATLの皮膚浸潤病変でのPD-1PD-L1の発現は予後不良因子であるとの報告であった。私の発表はATLの末梢血組織票本でのサバイビンの抗原回復免疫染色で診断が可能であるとの発表であったが、「予後に関しては?」と質問が座長からあったので、この研究は診断に関するものと答えた。

 

 その後、阪大の青笹名誉教授、広大の井内名誉教授、岡大の赤木名誉教授らと出会い、賈教授が旧交を確認していた。

 

 その後、私は評議員会議に出席した。会場で、その他の議題として、「専門医更新の単位を設定された臓器別病理診断に関する教育講演は立見が出るほどであるが、その他の一般講演の会場は閑古鳥が鳴く状況である。少しは、一般講演等にも参加者が参加する対応をとるべきではないか?」との現状への懸念が示された。全く同感であった。

 

  評議員会の後で、賈心善教授と共に、すすきのの炉端焼きの店(ウタリ)に出かけ、刺身、ホッケとイカの炉端焼きを堪能した。帰り際に、山形大の山川教授も店の奥にてうち内の宴席を囲んでいるのに気ずき、手を振って店を出た。

 

 

 

 学会2日目は、のんびりと会場に向かった。賈教授と連絡が取れないので、A会場の”情報通信技術(ICT)と人工知能(AI)を病理診断に生かす“と云う特別企画シンポジウムに顔を出すと、異様な熱気が感じられた。病理診断は形態学に入り、スライドスキャナーが手の届くものになり、いよいよ“あの先生の心眼”がコンピューターで走る時代の到来が期待されているようだ。しかし、今のAIでのマスデーター処理の結果は、そのプロセスを明らかに出来ない欠点があるのだから、次の世代では、“あのAIの予測”ではとなるのかなと思われた。

 

  アミロイドーシスに関する福井大の内木教授の宿題講演を拝聴し、生体内であらゆる蛋白がβシート構造を形成できるそうで感心して、会場に賈先生を探したが見つからずに、吉田愛知名誉教授とロイトンホテルのロビーであったので、ロビーのレストランで昼食を共にした。吉田愛知名誉教授は3日目の午後の専門医更新に要する感染、安全、倫理の講習会に前もって参加しておくことにされたそうだ。

 

  その後、賈教授と連絡がつき、午後は、ハイデルベルグ大学のアレクサンダー マリック教授の胸腺腫の講演を拝聴した。ポスター発表後の会員懇親会で、マリック教授と話す機会があった。彼はビュルツブルクのミューラー  ヘルメリンク教授の教室にいたそうで、丁度、ビュルツブルクでの日独リンフォーマセミナーの時にはいたそうだ。

 

 賈教授と落ち合う前に、旭川医大の鼻型NLTCLでの免疫療法の可能性に関する講演を拝聴した。まだ、多数例での検索を行なっていないそうであるが、彼らの症例はステージ1が多くて、介在する非腫瘍性のリンパ球等が多いのが特徴だそうで、免疫療法の可能性があるとの講演であった。我々の経験では、病変がT細胞領域ないし節外性リンパ球組織の傍濾胞領域に特徴的なTAMを認め、それ自体は抗腫瘍免疫反応よりも発癌微小環境を反映しているのではと考えているのだが、今後の研究の展開を期待したい。

 

 その後、話題の感染症についての講演を聞いていると、賈教授からの電話があった。彼のポスター発表には、彼の弟子で上海市肺疾患病院病理主任となった韓辰教授も来ているとのことで、彼女も今度の海外共同研究の海外研究者をお願いしているので、会いたかったが、今回は上手く時間の調整が出来なかった。賈教授と会場を歩いていると、熊大の竹屋教授にあった。現在、熊大の理事で副学長に就任しているのでそうだ。

 

 その後、会員懇親会に参加して、賈教授と駅前で軽く夕食を食べて、彼が宿泊していた札幌京王プラザホテルのロビーにて今後の共同研究等について話し別れた。彼は明日東京に移動して数日してから瀋陽に帰国するそうだ。

 

 学会3日目は、ホテルをチェックアウトして車で会場に向かった。癌の微小環境に関するシンポジウムを拝聴した。TAMに注目していたが、それ以外の腫瘍介在線維細胞(CAF)、腫瘍血管等の話題であった。腫瘍血管は癌細胞と同じゲノム異常を有していて癌細胞の幹細胞からの分化が想定されているようだが、特定の細胞への分化を伴った悪性腫瘍発生と考えるとその腫瘍細胞の本質的な変異は共通のゲノム変異以外に未だ明らかにされていないと悪性腫瘍細胞の原因を考える必要がありそうだ。

 

 次期病理学会理事長となった医科歯科大の北川教授の骨髄性腫瘍に関する 宿題講演を拝聴し、会場を出た。

 

 千歳はほぼ定刻に飛んだが、羽田では、鹿児島の天候次第で引き返す可能性があると云う条件付きで飛んだが、無事に鹿児島に着陸して帰鹿児島できた。