奥村晃久先生が、令和2年7月28日早朝に亡くなられた。令和2年4月25日には、快気祝いを敦煌会有志で行い、元気な姿を見ていましたが、その後、再度入院され、時折の電話やメールでは、すくなくとも今年の暮れまでは頑張れそうと話されていました。7月28日に先生の訃報の連絡を受けて、そんな、早すぎると云った思いではありましたが、通夜に敦煌会メンバーと駆けつけて、その受け入れ難い先生の死を確認できた次第でした。
法事であれば、49日とでも言うべき日ですが、令和2年のお盆明けに企画された敦煌会メンバーの瀬戸口さんのぶどう園でのぶどう狩りの機会に、国分の和くうかんでの偲ぶ会を行い、奥村晃久先生の好きだったビールで、お盆での見送ることが出来ました。先生らしい偲ぶ会でありました。
奥村晃久先生は、国際学術活動にも熱心で、国際分子病理学シンポジウム、日中病理学シンポジウムのパルピン、長春、瀋陽会議に参加されると共に、私達の中国東北地方のヒト悪性腫瘍の病理疫学的学術調査にも参加されて、文化交流と共に学術交流でも、大きく貢献されました。更に、出雲周二先生の中国のHTLV-1関連疾患、特に、HTLV-1-associated myelopathy (HAM)を見出そうと云う海外学術調査でのHTLV-1 meeting in Chinaには、私と一緒に参加されて、彼の卒後間もない時期に派遣された奄美の古仁屋で、当時未だ認識されていなかった成人T細胞白血病に遭遇し、変わった白血病と思われて、臨床記録等を保存されて来たそうで、その貴重な経験を発表された。
(写真は、大学院でのイスラム圏の女子教育プログラムの学生さんとの打ち上げにも参加され、ビールを楽しまれる奥村晃久先生(2014.8.21))
その一方で、学生時代からの社会医学研究会からフィールドワークに重きを置いていて、堂園先生の”風に立つライオン”プロジェクトに賛同されて、実際にインドでの学生研修に協力され(この話は、鶴陵会報に報告されている)、故中村哲先生のペシャワールの会に賛同して、アフガニスタン訪問は出来なかったそうだが、パキスタンまでは行かれたそうだ。
また、佐藤榮一門下として、鹿児島生協病院病理部長時代には、故佐藤榮一教授の叱咤激励を受けて、病理解剖症例検討会を実施されて、興味深い症例を記録し検討された。更に、私の大学院での専門基礎の講義を受けたイスラム圏の女子教育プログラムの学生さんとの打ち上げにも参加されて、国際交流に貢献され、敦煌会でも、アクティブメンバーとして活躍されました。
(写真は、佐藤榮一夫妻の金婚式のお祝い、佐藤門下の一人として奥村晃久先生も参加された。2016.4.8、城山ホテル)
鹿児島で新型コロナウイルス感染症の発生のない日々が続いていた6月中旬の例会(中華菜坊陸羽、6月17日)に指宿白水館の下田原社長が野添先生の誘いで参加されて、大いに盛り上がった。その結果、7月例会は、白水館への一泊旅行で、下竹原社長の“明治維新と濱崎太平次”と題した指宿ゆかりの薩摩藩の幕末の豪商であった濱崎田平次についての講演を企画することになった。
日程等や予約の方法の打ち合わせを行なって、7月例会の案内を出していた所、鹿児島県知事選挙の応援の集会後に多数の者が老舗のニューハーフのショウパブで気勢を上げた挙句に新型コロナウイルス感染症の100人規模のクラスターが発生した。クラスターでは、一部で3次感染が生じたが、一週間程で収束して来たが、老人介護サービス施設にも、県外から新型コロナウイルス感染症が持ち込まれたが、十人単位のクラスターで収束していたことから、数名で集まり、検討して、会場も特に感染の危険性も十分に配慮されたホテルであり、実施を決めて、予約等をホテルの予約センターに申し込むことになった。開催の日程が、丁度、国のGoToトラベルに該当することが判り、社長にGoToトラベル企画に参加予定であることも確認されて、丁度良いタイミングの一泊旅行となった。しかし、当初は20名を超えそうであった参加者は、日帰りの3名を加えて12名となっていたが、参加者の2名が、それぞれ、老人介護サービス施設での新型コロナウイルス感染症の直前の発症があり、その利用者の家族はPCR検査は陰性であったが、その家族の介護サービスが中止となり、その分の対応で、参加者予定者が参加出来なくなった。最終的な参加者は、佐藤夫人、厚地夫妻、吉村先生、坂江夫妻、野尻夫人、野添夫妻、蓮井の10名(佐藤夫人と野尻夫人は、日帰り)となった。
チェックして、別棟の離宮の部屋に入り、先ずはのんびりした。この離宮には、貴賓室はないが、最上階に、小泉首相時代の日韓首脳会議の参加者やロシアのエリチン大統領夫妻が宿泊されたそうだ。
宿泊メンバーと下竹原社長
7月25日(土)、午前中の病院の診療を終えて、急ぎ帰宅して、迎えに来た通称森山バスに乗り込み、指宿へと向かった。今回は、参加者全員が、この森山バスに乗って行けた。午後4時前に、白水館に到着した。ホテル玄関には、アルコール消毒、テレビモニターでの顔色での発熱チェックがあり、フロントのあるロビーでは、ひとつ置きの座席、チェックインの混みを避ける並びの動線が指定されていた。チェックインの手続き中に、下竹原社長のお迎え受けて、野添先生は、早々に、社長の講演は、ホテルの他のお客さんにもアナウンスして聴衆を増やそうかと相談されていたが、三密を避ける為に、この敦煌会のメンバーに森山バスの運転手の森山さんの参加で適切と言うことであった。
チェックして、別棟の離宮の部屋に入り、先ずはのんびりした。この離宮には、貴賓室はないが、最上階に、小泉首相時代の日韓首脳会議の参加者やロシアのエリチン大統領夫妻が宿泊されたそうだ。
下竹原社長の講演“明治維新と濱崎太平次”は、30名前後の定員の会議室で、ゆっくりした間隔で座して、6時過ぎから45分余りで行われた。
薩摩藩の琉球支配体制が、藩財政に逼迫した斉興の時代に、茶坊主の調所笑左衛門を家老にして、表裏の財政改革を行った。その一つが、密貿易であり、それを担ったのが没落していた山木屋を琉球の黒糖業者と富山の出汁昆布業者の間の物流を基礎に、琉球から中国(上海、廈門、広東)とフィリピンのルソンに支店を展開(現代の商社の先駆けを組織)した濱崎太平次であった。1) この時期は、アメリカ南北戦争でアメリカ南部の綿花生産・供給の低下で上海市場での綿花暴騰が起こり、濱崎は国内の綿花を二束三文で買い集めて上海市場で売り抜けて、800億円相当の蓄財を行った。この時期には、表裏の財政改革に成功しては財政は蓄財が始まっていた。更に、2) アメリカ南北戦争の北軍の優勢が決定的になったゲチイスバーグの戦い以降、イギリスの南郡への武器や船舶の供給を停止し、ダブついたこれらに加えて、アメリカ南北戦争終結後のリンカーン大統領による余った最新の武器の売却決定を受けて、長崎のグラバー(イギリスのジャーデイン・マイセン社(東インド会社)の長崎支配人)を介して、綿花暴騰等での蓄財でイギリスとアメリカから船舶や最新の武器の購入に到った。これが、薩摩と幕府との最新武器での格差を生じた。幕府はその最新武器での格差解消をフランスへの借金で賄おうと画策するに至った。
斉彬の密貿易の幕府への密告で、調所笑左衛門は切腹し、濱崎太平次は上海へと身を隠した。彼らの薩摩藩への蓄財はその後も継続していたと考えられ、その薩摩藩の蓄財が明治維新を引き起こす財源になったと考えるのが当然のようであると言われる。明治維新は、斉彬、久光の藩政下での西郷・大久保らの良く知られた明治維新の表の物語と共に、薩英戦争、薩摩英国留学生派遣、パリ万博での幕府と薩摩琉球国の抗争の結果であると理解されるのだが、調所笑左衛門と濱崎太平次の功績は忘れてはいけないものであるそうだ。
更に、濱崎太平次は、明治維新の4年前に大阪で客死しているのだが、彼の山木屋の大番頭だった川崎正蔵は、濱崎太平次の死後に退社して、川崎郵船を興している。濱崎太平次の」山木屋は現在の商社の先駆けであったが、既に、分社化にも対応しており、濱崎太平次の客死後には、彼の血縁者に関する記録もなく、大番頭だった川崎正蔵がその 分社化の構想を実施したのではなかろうか。その後、川崎グループを率いた松方幸次郎が巨万の富を得て、松方コレクションを作っている。これは、幕末期の豪商である濱崎太平次の先見性が、現在の日本の文化コレクションの確立にも寄与しているようだ。
下竹原社長は、若い頃に、三菱商事に勤めていて、経済からの視点でも明治維新を理解する必要があると考えているそうである。
因みに、日本史の中で、何故と思われる秀吉の朝鮮出兵?や徳川幕府成立後の過剰となった戦国武士は?と言った問題が、スペイン王のキリスト教を浸透させて、種子島銃を日本刀鍛治職人の技術によるヨーロッパ銃よりも優れた改良種子島銃等で武装した日本人による中国征服案があったが、秀吉がその戦費をスペインの支配下のフィリピンから調達しようと計画したことと共に、スペイン王と秀吉の死により頓挫したが最近のヨーロッパでの記録の発見で明らかなり、、また、スペインと競合し台頭したオランダの東インド会社による余剰戦国武士の傭兵がインドネシアの世界の香料貿易の拠点のスペインの城砦の攻撃に動員され、石見銀山の銀がオランダ東インド会社の世界戦略の経済を動かしたことも、最近ヨーロッパで発見された資料から明らかになっている。これらは、明治維新も、濱崎太平次の環東シナ海商社として山木屋の商業活動とイギリス東インド会社と薩摩藩の経済革命との視点も明らかにされるのだろうなと思われた。
講演を記念して、野添夫人が敦煌会を代表して、花束の贈呈を行った。
翌朝は、6時過ぎには目覚めたので、大風呂に行き、美味しい朝食を摂ってロビーに来たら、下竹原社長が、薩摩伝承館に、パリ博覧会での薩摩琉球勲章の本物と幕府も企画したが幻に終わった勲章のデプリカが2階に展示してあるので一緒に見に行こうということになった。歴史家でもあった先代社長の誕生日を記念してこの薩摩伝承館は建てられたもので、時にコンサートも開かれる一階があり、焼き物等も展示されている2階にその勲章を見ることが出来た。
また、白水館は、メデイポリス国際陽子線治療センターの宿泊施設の運営も行っていたので医療観ツーリズウムの実情を聞いてみると、既に400例ほどの中国からの患者の治療逗留の実績が積みあがってきているそうだ。
その後、GoToキャンペーンでの還付申請に必要な書類をチェックアウトで受け取り、下竹原社長の見送りを受けて、森山バスでホテルを発った。殿様湯と言う今も入浴出来る温泉の脇の江戸時代の温泉跡を訪ねた。海岸に建つ濱崎太平次像を見て、市街地の公園の一部にある濱崎太平次のお墓を参拝し、濱崎太平次の旧宅跡は市街地の中で判然としなかった。
指宿駅前の蕎麦屋長寿庵で昼食をとり、鹿児島に帰って来た。
名倉宏先生が亡くられたとの連絡が次女さんからあった。闘病中にも、国際分子病理学シンポジウムで訪れた街々の思い出を、旅番組を見ては、語られていたそうである。名倉宏先生のご冥福を願いたい。
国際分子病理学シンポジウムに関しては、その記録や報告は、鹿児島大学リポジトリにアップロードされているので、敦煌会議、成都・九寨溝会議、昆明・大理・麗江会議、ウルムチ・トルファン会議、鹿児島会議、西寧会議にて、ネット検索が可能になっている。
この国際分子病理学シンポジウムの日本側の病理関係者では、そもそもの発起人であった東海大の渡辺慶一先生、福大の菊池昌弘先生、熊大の高橋潔先生、鹿大の佐藤榮一先生に次いで、東北大の名倉宏先生が亡くなられた。この世代の病理の先生方は、めっぽう教育熱心で、皆さんが中国からも留学生を受け入れた経験があり、留学生が帰国後も、交流を続けられておられた。このシンポジウムを機会に、帰国している留学生を訪ねることがしばしばあった。きっと、この面々は、天国でも、国際分子病理学シンポジウム天国分科会でもやっているのだろうと思われる。
私の名倉宏先生とのもう一つの接点は、免疫組織化学である。血液病理を専門にする一方で、研究方法として、組織化学を用いて、HTLV-1関連病変の解析を行なって来ている。取り分け、HYLV-1 pXの産物を検出しようとして、旧西ドイツのリューベック医科大学のフェラー教授の教室のメルツ教授にImmunoMax法を学び、更に、改良したsimplified CSA法を確立したりしていた時に、大学院基礎専門課程での講義として、酵素抗体法のヒト病理組織への応用解析と云った講義を持つことになった。その講義の所謂教科書として、名倉宏先生らが編集された酵素抗体法を使わしていただく了解を頂いた。その講義の講義資料は、鹿児島大学リポジトリにアップロードされている。その後の大学院でのイスラム圏の女子教育プロジェクトにて、その講義は英語での講義となった。こちらは、まだ論文にしていない部分があり、講義資料のリポジトリへのアップロードは行なっていない。近々、論文化を行って、講義資料のアップロードを行いたいと思っている。
したがって、名倉宏先生の思い出は、国際分子病理学シンポジウムでの後会議での次開催に関してのご示唆と共に、酵素抗体法の先生といった側面がある。最近の抗原回復免疫組織化学は、ほとんどのヒト蛋白を固定パラフイン包埋標本切片で標識出来る抗体が作成されていて、抗原回復の適切な選択と適切な抗原検出感度の検出系を選択すれば、ほとんどのヒト蛋白等の局在を、病理組織切片で標識することが可能になっている。従って、実際の研究では、抗原回復別と検出感度別のコントロール染色の提示が必要になっている。最近のヒト悪性腫瘍の全ゲノム解析にて、腫瘍細胞の増殖に関与するドライバー遺伝子や変異等は、今後の化学療法等での最適な薬の選択に寄与するだろうが、腫瘍細胞の微小環境や抗酸化反応等におけるドライバー遺伝子や変異は、今後のヒト悪性腫瘍の治療の標的であり、その解明には、ヒト病理組織標本での酵素抗体法が有用なツールとなると思われ、酵素抗体法の開発の先人達の業績の再評価が行われるものと思われる。
野添良隆先生から、面白い講演会があるが、参加申し込みをする必要があると言うことで、野添先生を始めとして、令和2年の運試しの宝くじ気分で応募した所、見事に、野添良隆先生と私が落選した。野添先生の参加の切望を知り、仮屋雅仁先生が整理券を譲られたとのことで、私も参加することが出来た。仮屋雅仁先生に、感謝している。
その面白い講演会というのが、2020年2月2日に城山ホテル鹿児島で開催された「第29回北前船寄港地フォーラムin鹿児島」であった。
兎に角、参加して解ったのは、鹿児島市の主催によるもので、中国の大連市等からの参加が予定されていたが、新型コロナウイルス肺炎により渡航出来なくなり、60名余りの欠席が判明したのだそうだ。間髪を入れずに、追加での参加希望の応募落選者への連絡が無かったことは、残念であった。
でも、野添先生と二人して、一般席からこの会を楽しんで来た。
午後の部の最初の開催者の鹿児島市長の森博幸氏の話で、この企画の目的が理解できた。当初から、北前船寄港地フォーラムに参加して、鹿児島市での開催にこぎつけて、鹿児島の地場産業の北海道から北前船の寄港地との間と共に、琉球口からの薩摩の北前船航路の延長の歴史を継承した国際間での交流促進と産業振興を企図しているようだ。市レベルでの自治体の交流事業に、観光庁長官も来賓として参加し、国際間での草の根的地場企業間での交流振興やインバウンドの増加が期待されているようだ。
一般社団法人 北前船交流拡大機構理事長の浜田健一郎は、この北前船寄港地フォーラムの企画は、東北大震災後の地域振興の方策の側面もあり、この10年余りで29回開催され、既に、中国の大連市でも開催された実績を積み上げて来ていると挨拶された。
評議員議長の石川好は、午前の部でに開会の挨拶で、実際の北前船寄港地でのフォーラムの開催で、地場企業の振興とその間の交流の促進が実を結びつつあり、フォーラム開催での交流が意味があると開会の挨拶を言っていた。
午前の部の「北前船と鹿児島」をテーマに、以下の鹿児島の壮々たる歴史家によるパネルデイスカションが行われた。コーデイネーターは、志学館大学教授の原口泉で、パネリストには、西郷南洲顕彰館館長の徳永和喜、鹿児島市維新ふるさと館前特別顧問の福田賢治、尚古集成館館長の松尾千歳、西郷隆盛研究家の安川あかねであった。薩摩藩の財政改革の中で、家老の調所広郷による認可されていた琉球口での北海道の昆布やアワビを北前船で仕入れて中国に売り込んだものが、北前船の琉球を経た中国への航路延長を意味すると言うことであるようだ。ただ、北前船は沿岸に沿った航路を行く千石船であるが、琉球と中国の間は、外洋型のジャンク船であるが、薩摩と琉球の間は外洋航行が可能だった薩摩型の千石船があったのかなと思われるそうだ。この調所の時代と西郷隆盛の時代は重なっておらずに、維新前まで、奄美の黒糖の専売による薩摩藩の蓄財も続いていたようで、調所の薩摩藩の財政改革は維新への原動力であったことは揺るぎないものであるようだ。
昼休みに、城山ホテルの前庭から、鹿児島市街と桜島を望む。北ふ頭に、小さく、海王丸を見る。
午後の2部の基調講演では、基調講演1は、九州旅客鉄道株式会社代表取締役社長の青柳俊彦の「D&S列車で九州を元気に!」は、豪華列車の企画は順調に伸びていると共に、外国人向けの九州内乗り降り自由なフリー切符の売り上げが、近年のインバウンドの伸びを反映して、従来の韓国と中国からの旅行者の増加よりも東南アジアからの旅行者の利用が増加して来ていると言われた。更に、鉄道事業が4割で鉄道以外の事業が6割と、鉄道事業依存体質の改善を実施しているそうだ。
基調講演2は、歴史家 磯田道史の「なぜ薩摩は強い国か」と大変興味ある講演であった。
北前船は、本来、瀬戸内の農業で、綿花栽培に魚肥が必要になり、当初は千葉から入れていたが、千葉でも魚肥を要する様になり、北海道のニシンを魚肥にと言うことで、北前船が発展したのだそうだ。
この綿花栽培は米栽培で依存した各藩の石高が決まり、それ以外の農産物への税金がかからない江戸時代の税制により、米作以外の農業ができる農民は富んでいたのだそうだ。ここで、この米作以外の産物から藩収入を増やす方策を実施出来た藩が「強い藩」であったそうだ。
また、米作に依存していても、肥後の藩士教育による藩政の改革が財政改革も成し遂げたそうで、蔵の外にまで米俵が積みあがって肥後藩邸を見て、長州や薩摩藩は、肥後藩に学び、藩士の教育レベルを上げたそうで、これは、調所の財政改革よりも50年先行して実施されていたそうである。
更に、維新前夜の薩摩の実情を探った密偵の報告が見つかっていて、薩摩の貧困ぶりは相当なものであるが、米作よりもサツマイモで生きて行ける背景があり、奄美の黒糖や琉球口での中国貿易で藩の専売体制を築き易い市場から遠いと言うこともあり、薩摩藩の財政を豊かにしたと考えられるのだそうだ。
藩士教育、財政改革に加えて、薩摩の郷中教育も、直面した問題への多面的な解決策を先んじて考える習慣を育む側面があり、西郷隆盛等の郷中教育世代が維新の難局を乗り越えるパワーになったと考えられるのだそうだ。
まだ未だ、磯田先生は話し足りなかった様であったが、眼から鱗の話題であった。
最後の基調報告は、「中国等海外との交流拡大と産業振興」と題して行われた。鹿児島国際大学教授は、大連生まれで大連育ちで、日本の国費留学生として京都大学に留学し、現在、鹿児島国際大学で、中国をはじめに東南アジアから留学生を受け入れて、その卒業生は、日本、鹿児島の企業等に就職し、異文化交流の実績を示しているそうだ。大学での交流事業は、実際に地域の国際化に寄与しており、大学レベルでの学生交流は推進されるべきものであると報告した。観光庁の課長は、最近のインバウンドの右肩上がりの傾向を報告し、最近は、中国、韓国のみならず、東南アジアからのインバウンド、ビジネス以外の観光客の顕著な増加が目立っていると報告した。鹿児島相互銀行の海外担当者は、最近の海外の商談会への鹿児島の地場企業も参加が増えて、特に、中国の大連市での商談会が成果を上げつつあり、東南アジア、ベトナム等で商談会が期待されると報告した。
北前船に関連して、維新前の薩摩の状況の理解の方向性が明らかになって来ている様だ。また、観光、地場産業の振興が、国内の地域間の交流に、海外の都市を巻き込んだ交流の拡大が、インバウンドの増加と地場企業振興に効果を示すことが理解出来るようだ。
令和元年、今年の忘年会も、余すところ、敦煌会の12月例会を残すのみとなり、師走感を感じている。
病院の忘年会と医学部バスケット部と鹿児島病理学の忘年会が重なり、病院の忘年会に参加した。医療法人傘下の老健施設が超強化型に評価されて、関係各位の表彰が行われた。病院を中核とした連携というよりも、より独立した老健としての頑張りが評価されたようだ。この医療法人の忘年会の参加者もかなり介護領域の関係者が多いのが事実であるようだ。
神経免疫学(久保田教授)の忘年会にも、お邪魔させて頂き、HTLV-1関係の研究の進展等を伺って、大いに、研究心を高揚させられ、また、中国の共同研究者から日本の科学研究費とは桁違いの中国の研究費申請への参加を勧められたそうで、彼の中国でのHAM関連研究の進展が来年度以降も期待されると思われた。
鹿児島日独協会のクリスマスパーティーは、例年の谷山教会の御堂でのコンサートは、中村かしこ教授の企画による鹿児島国際大学音楽科の関係者による古楽器(リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、19世紀ギター)によるコンサートで、特徴のある音色に聞き惚れた。その後のクリスマスパーティーで、浜松のピアノ博物館のように古ピアノ演奏のCD集等があるのかと聞いたが、まだ、作製されていないそうで、残念であった。
免疫学(原教授)の忘年会は、学部学生の自主研究発表会の打ち上げと一緒に行われた。免疫学での3名の学部学生の自主研究については、本格的な実験を経験して、大いに研究の醍醐味とその実際を経験出来たそうだ。学生時代に色々な実験を経験できることは有意義であり、教育者として面倒を見た教室スタッフの実力も評価できると、原教授が力説していた。宴の締をと言われるので、ここ10年近く、科研費を申請しても内定ない中で、研究発表はして来て、論文にすべきものは溜まってきたが、研究費の獲得を待っての論文化では対応出来ない状況になって来ていて、先日の村田教授の叙勲のパーティーで、日本組織細胞化学会の機関誌であるActa Histoch Cytochも、従来、染色結果のカラー写真を含めると一つの論文当たり25万前後を要したが、ページ当たり5千円となり、論文発表もどうにかポケットマネーで可能な費用となったと聞いて、論文作成を来年の私の目標としているとして、皆さんの来年の発展を願いますと、免疫学の忘年会を締めた。
最後の敦煌会12月例会は参加者が17名と、次第に大きな会になって来ているが、今回は、ペシャワール会の中村医師の非業の最後で、ペシャワール会に参加されてパキスタンまでは行ったことのある奥村先生の報告が予定されており、日本的な灌漑事業によるアフガニスタンの平和への中村医師の活動と努力について聞けるものと期待している。
令和元年の師走を、来年の計画を夢見て終える幸福を感じている。幸多き令和2年を期待したい。
村田長芳(ムラタ フサヨシ)名誉教授(前鹿児島大学医学部解剖学大第二講座(大学院医歯学総合研究科細胞生物構造医学分野)、現原田学園鹿児島医療専門学校学術顧問)が令和元年春に叙勲(瑞宝中綬章)を受けられた。
村田長芳名誉教授は、信州大学、鹿児島大学で、解剖学教育に関わり、鹿児島大学定年に当たっては、解剖学分野での教育への貢献を企図されて、原田学園鹿児島医療専門学校学術顧問として、解剖学講義を担当されている。更に、村田長芳名誉教授の解剖学分野での教育実績に加えて、胃の局所解剖学・組織学や電気顕微鏡による研究業績も評価され、この瑞宝中綬章の叙勲に至り、関係各位の喜びも大きなものであった。
菅沼龍夫教授は、村田解剖学教室の助教授から宮崎医科大学教授に転出されその後宮崎医科大学・宮崎大学学長になって定年を迎えられている。菅沼龍夫名誉教授は、村田長芳名誉教授の一番弟子を自任されており、村田長芳名誉教授の瑞宝中綬章の叙勲を大いに喜び、祝う会を早速企画され、準備委員会を組織して、令和元年10月10日の城山ホテル鹿児島での村田長芳名誉教授の瑞宝中綬章の叙勲を祝う会の開催となった。
祝う会では、村田長芳名誉教授の組織細胞化学への深い関係から、日本組織細胞化学会理事長の長崎大学組織細胞生物学分野の小路武彦教授が来賓の挨拶をされた。また、学部解剖学講義を受けた代表として、富山大学理事・副学長の北島勲教授も、来賓の挨拶をされた。
村田長芳名誉教授が、ウイリアム ウイルスの鹿児島大学医学部の足跡を辿る旅に参加され、英国留学で栄養学を学び日本海軍での脚気問題を解決した高木兼寛の実践的栄養学に関して講演等をされており、鹿児島日英協会の理事をされていて、その会長の島津公保氏の乾杯が祝う会では行われた。
村田長芳名誉教授の学部解剖学教育や基礎配属プログラムでのアドバンス解剖学教育に熱心で、しばしば学生のベストティーチャー賞に選ばれていた。この結果、その学生等の幾人かも、祝う会に参加した。チータム倫子先生と大久保明子先生の花束贈呈が行われた。
私は、村田長芳名誉教授の定年まで5年程になった時期に、主たる研究の場を病理学講座から解剖学大第二講座に移して、研究指導を受けて、抗原回復免疫組織化学の研究開発やその応用研究に専念できる研究環境を頂き、関連国際学会等への参加発表等や国際分子病理学シンポジウムの開催等も支援して頂いた。また、鹿児島医療センター附属看護学校での解剖学講義は村田長芳名誉教授の紹介で開始し、昨今の人体への理解の一般市民への医学教育プログラムの普及での視聴教材を用いて、現在も、年度の前半は、週2回の講義を続けている。また、丁度、英国のヨークでの国際組織細胞化学会では、村田解剖学教室の助教授から宮崎医科大学教授に転出されていた菅沼龍夫教授と一緒になり、意気投合し、その後の関連学会等でも菅沼龍夫教授と交流を続けて来た。菅沼龍夫名誉教授のこの村田長芳名誉教授の瑞宝中綬章の叙勲を祝う会の企画早々にその準備委員会に村田長芳名誉教授の弟子の一人としてお誘いを受けて、大変、光栄な経験であった。
更に、村田長芳名誉教授の叙勲を祝う会での返礼のサムエル ウルマンの新井満自由訳の「青春とは」“は、日本の高度経済成長期の原動力になったメンタルな強さであるそうだが、”青春とは、若い肉体にあるのではなく、若い精神にある“という。村田長芳名誉教授の座右の銘であり、先生の若さに敬服した。
以前から、薩摩焼(白薩摩)が、幕末から明治にかけて、パリとウイーンの万博で、高い評価を受けて、ヨーロッパのジャポニズムに浮絵世と共に影響を及ぼしたことは知っていた。黎明館での薩摩焼展に合わせて明治150年企画で開催された第三十三第島津忠裕さんと第十五代沈壽官さんのトークショウで、更に、興味深いことが解った。
幕末から明治の蘭学者の多かった幕府外交方と薩摩から、親露派の活動があり、丁度、ニコライ皇太子の世界旅行の最後に日本を訪ねた時の国賓としての親善交流で鹿児島を訪ねた。その後の大津事件で、明治天皇に加えて島津忠義らのお見舞い交流、その後のニコライ二世の戴冠式での外交交流に、有栖宮に託された島津忠義からの薩摩焼、その島津焼がニコライ二世のペテルブルクの宮廷の玄関に飾られた。ロシア革命を経て、この薩摩焼がエルミタージュに保存されていて、この明治150年企画で開催された黎明館での薩摩焼展に里帰りでき、更に、それを作成した第十二代沈壽官の下絵が見つかったことは、非常に興味深かった。
また、白薩摩は、明治初期まではお庭焼で藩工房で作られていたが、本格的な輸出ブームで京薩摩や横浜薩摩の隆盛に対応出来ずに、藩工房での職人のリストラと士族の絵付け士への転職を目的に、藩工房の職人頭であった第十二代沈壽官は藩工房を辞して、今の沈壽官窯が設立されたのだそうである。この第十二代鎮守官が、島津忠義の発注で、ニコライ二世への薩摩焼を作成した。
更に、この明治150年事業として、第三十三代島津家当主の島津忠裕さんが第十五代沈壽官さんに発注して作成された薩摩焼が出来て、仙巌園に展示されているのだそうで、トークショウでは、それぞれ二代先でのこの薩摩焼の作成での薩摩焼の技術伝承の方策も出て来た。
この日本の薩摩焼の幕末から明治の歴史を見ると、秀吉の朝鮮出兵で連れて来られた朝鮮の陶工達が各藩でそれなりの待遇を得て、磁器の有田焼(オランダの東インド会社にて、江戸時代には既にヨーロッパに紹介されいた)と陶器の薩摩焼の日本での隆盛は、その後に朝鮮への帰国が許されても、日本に残った朝鮮の陶工達の判断を考えると、朝鮮の陶工達にとって、秀吉の朝鮮出兵は彼らに社会的栄転を与えたとも理解され、歴史評価の多面性を考える必要のあるテーマである。
大津事件での日本の対応は、日本の成熟した法治国家としての刑法の確立とニコライ二世への謝罪外交に分けて考え、島津忠義からの薩摩焼や沢山の土産はニコライ二世に親日感情を惹起させ、被告への刑罰は準法であるとする一方で、ビキペデイアには、日本の被告への成熟した法治国家として刑罰の決定よりは、ロシア皇帝を恐れての被告への死刑判決に対してのロシア皇帝の寛大な処置への皇帝外交の機会を潰したことが後のニコライ二世の嫌日になる契機となったとしている。
東洋における成熟した法治国家日本は、当時のヨーロッパ諸国からは期待されずに、競争相手と見られたようである。これも、歴史の多面的な理解が必要とされる一例であるようだ。
2018.11.1(平成30年11月1日)、 佐藤榮一先生が、逝かれた。
私(蓮井和久)は、鹿佐藤榮一先生が児島大学医学部病理学第二講座の教授に東北大学から赴任されての最初の学部講義を受講した世代として、その後の大学院医学研究科病理学時代には直接指導を受けて学位を頂いた大学院学生として、旧西ドイツのキール大学病理学教室(レンネルト教授)へのロータリー財団奨学生としての留学交渉を文部省短期留学で逗留中に直接交渉して頂き、歴史的な日独リンパ腫共同研究(レンネルト教授、須知先生、菊池教授、佐藤教授)の場に居合わせる機会を得て、その後の日独リンパ腫セミナーの企画へと導き頂き、更に、日中尿理学・国際分子病理学シンポジウムの企画・実施に直接的・間接的に指導を頂き、頭が上がらない程の教育指導と御恩を受けて来た。私達の世代は20年の年齢の違いを超えて、佐藤先生と“友人的な交流”をして頂き、尊師として尊敬せよと教室の諸先輩から言われ続けてきたのだが、病床を訪ねる度にこれが最高の人間的な師弟交流となっていたと理解した。
佐藤榮一先生は、大学を定年後は、鹿児島県公安委員会で活躍され、平成天皇・皇后の鹿児島訪問では警備責任者として、その世代の憧れの象徴である皇后をまじかに見て感激されたそうだ。82歳で公安委員会推薦で叙勲を受けられ、教室関係者共々に、お祝いしたのがつい先日である。
日中の病理学交流では、鹿児島での日中文化交流会、称して敦煌会の代表として、学外文化交流の推進を計られ、私もその会の運営等の経験を積ませて頂いた。この敦煌会の代表は、その後、佐藤百合子夫人が継がれて、毎月の例会で、関係各位の親交を深めている。そして、今、佐藤榮一先生の大いなる功績と大いなる人柄を偲びつつ、関係者は次なる時代を拓いて行きつつある。
青海大学副学長の格日力教授と夫人の和倫さんが、佐藤榮一先生の弔問に鹿児島を訪ねられた。ご夫婦共に、佐藤教室に留学経験のある方々で、核日力先生には、第6回国債分子病理学ンシンポジウム(西寧会議)での中国側の副会長として、ご協力頂き、更に、歓待して頂いた。
格日力教授夫妻の佐藤栄一先生を恩師として敬う気持ちを、弔問後の佐藤百合子夫人の御礼の宴で拝聴し、今後の親密は佐藤門下での学問領域のみならず同僚としての交流を誓った。格日力教授の専門は、高山医学ではあるが、現在、青海省のチベットの人々でのエキノコッカス症が大きな問題となっており、国家的な研究を行っているそうで、毎年、日本で医師免許と学位を得て、現在、日本人の夫と共に開業さえている娘さん夫婦と尋ねると共に、日本のエキノコッカスの専門家との共同研究を行っているそうだ。
この宴には、佐藤教室に留学していた時に、懇意にしていた仮屋雅仁先生、後藤正道先生、チベットの研究希望を持っている久保田隆二教授、中国に興味深々の野添良隆先生に私(蓮井)が参加して、佐藤榮一先生を偲び、当時の話題で親交を深めてた。
2019.11.10 佐藤榮一先生の一周忌と偲ぶ会を、百合子夫人が開催された。
偲ぶ会は、昭和8年会の吉村先生の司会で、日独協会関係の岩男先生、山原先生、友人の厚地先生、弟子の瀬戸山先生、坂江先生、米澤先生、中村先生、後藤先生、山中先生、松下先生、坂本先生、私(蓮井)の佐藤榮一先生との思い出のテーブルスピーチが行われて、故佐藤榮一先生の幅広い交友と弟子らへのそれぞれへの心ある対応が偲ばれた。